癒しの沖縄旅行

みるくや

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。 また、東條英機が横浜の野戦病院に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[5]。 しかし占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。しかし現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年から彼はたびたび、日本の占領統治は非常にうまく行っている、日本が軍事国家になる心配はない、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。 1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に看護師 求人 する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、彼が大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。彼を支持している人物には、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。 しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーと彼は、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。 朝鮮戦争での転職サイト 1950年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。 しかしその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった(GHQ外交局長シーボルトの回想による)。6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送と米民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。 28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩ら要人との会談を行った。その後前線視察を行い兵士を鼓舞し、すぐさま東京へ戻った。 7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍・在韓米軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日米軍第八軍を援軍として派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。 1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、彼は李承晩に「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。彼はすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、9月に仁川上陸作戦を成功させてソウルを奪還した。しかし、中華人民共和国との国境まで迫ったこともあり、実態は中華人民共和国の国軍である人民解放軍で結成された「義勇軍」の参戦を招き、その後戦況は一進一退に陥った。 1951年になると、共産軍の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立した。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。 副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「監視カメラ 」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。 マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。 4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂の日本政府は彼に『データ復旧 』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。 1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。彼は最後に、ウェストポイント陸軍士官学校の兵舎で当時流行していた歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」と言い、有名になった(ただし、正しいスピーチはややニュアンスが異なる)。議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。 マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。1964年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が出席した。