癒しの沖縄旅行

ゲストハウス赤道直家

昭和3年(1928年)、神戸市神戸區(現・中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。 昭和4年(1929年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。伯爵樺山愛輔の長男丑二の紹介で、その妹正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた[2]。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(1937)を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛文麿とは個人的な親交も深く、奔放な息子文隆のしつけがかりを押しつけられていたこともあった。 昭和15年(1940年)来るべき日英・米戦争、それに伴う食料不足を予期し[3]、事業から手を引き、東京都南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現、東京都町田市能ヶ谷町)の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付けて隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。同年に、長女桂子がうまれる。 昭和20年(1945年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)を向こうに回した戦いの火蓋が切られる。白洲は、GHQ / SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ / SCAP某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[4]。 昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝り、ちゃんとテーブルを用意させた。GHQ / SCAP民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した(米語に対する最大限の皮肉、後述)などGHQ / SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。 同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。昭和21年(1946年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQ/SCAPの拒否にあった際に、GHQ/SCAP草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は、2月15日にGHQ/SCAP草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡[5]を出し時間を得ようとするが、これは、GHQ/SCAPから不必要な遅滞は許されないと言明される。 同年3月に終連次長に就任。8月経済安定本部次長に就任。昭和22年(1947年)6月18日、終連次長を退任する。 昭和23年(1948年)12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。なお、就任にあたり優越を目的とした企業や関係者から贈り物が届いたのを知ると、知らせた者を一喝し受け取りを拒否したといわれる。少資源国日本が生き残る道として、経済復興には産業政策を輸出主導型へ転換させる必要があるとし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。それをなし遂げる政治力は「白洲三百人力」と言われた。 昭和25年(1950年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。 昭和26年(1951年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。1952年11月19日から1954年12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は、政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。 既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた横浜 マンション は、昭和26年(1951年)5月に東北電力会長に就任する。就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから昭和34年(1959年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は、荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。白洲はケンブリッジ大学時代に築いた人脈を利用して様々な英国企業の個人エージェントを勤めており、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。そして時々英国に出張してはそのカネを引き下ろしては日本に密かに持ち帰っていた(白洲の「出張」の大半は外交官扱いなので、英国での稼ぎは外交官特権により合法的に持ち帰る事が可能であった。そして、当時の為替レートからすると、英国で稼いだ金額を日本円に換算すると非常な価値があった)。戦後も彼は浮世離れした生活を営んでいたが、それを可能にしたのはこうしたカネの流れがあったからこそなのである。 白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは、本人によると14,5歳の時からでイギリス留学中はゴルフはしなかったが帰国してから熱中した。昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等に、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく「プレイ・ファスト」を徹底させた。1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。 親友ロビン・ビングとは、互いに祖国がSEO 状態に入るという不幸な時期を経て、昭和27年(1952年)ロンドンで再会を果たした。最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。 80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じていたが、昭和60年(1985年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。享年83。墓所は兵庫県三田市の心月院である。正子夫人と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。そして、白洲次郎の墓碑には、白洲正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。 白洲の車好きは有名である。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。ロンドンから一時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。また、2代目トヨタ・ソアラの開発に際しては、事実上のアドバイザー役を務めた。 身長185センチ、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。[6] 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、白洲の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。 日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている。(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)また、ラッパズボンも愛用していた。 晩年、彼が政治家として最も評価していたのは、英語使いとして知られた元官僚の宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。 結婚当初、正子を「 薩摩の奴らは、江戸に入城した時は、・・・」とからかったら、正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。 映画『夜の蝶』(1957年、大映)の主人公、白沢一郎(コロンビア大卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪)のモデルは彼である。 手先が器用で日曜大工が趣味の一つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。 日本橋の肉料理屋「誠」が行きつけであった。 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250グラムのステーキを平らげていた。また明太子も好物だった。白洲は戦後に西鉄がプロ野球球団を設立する際の後ろ盾になったが、その時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったためのようで、パンに塗って食べるのが好みだったようだ。 神戸一中時代に、モバイルSEO に十歳位年上のガールフレンドがいた。 GHQ/SCAP民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と白洲が返答した有名なエピソードであるが、これは単に白洲の英語が日本人ばなれして上手だったので、ホイットニーにやり返したと言う事では無い。このエピソードには以下の背景がある。 イギリス英語にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、オックスブリッジアクセントと呼ばれる(そして階級社会のイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は上流階級として、あらゆる場所で然るべき待遇を受ける)。ケンブリッジ出身の白洲の喋る英語は、当然、オックスブリッジアクセントであった。一方、アメリカの大学とオックスブリッジとの関係であるが、アメリカで名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。そして、ホイットニーは、一般市民に広く門戸を開放した事で有名なジョージワシントン大学出身である。