癒しの沖縄旅行

ゴールド・ステイ

白洲の「もう少し勉強」と言う言葉は、(2)に掛かると「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる。」、(3)に掛かると「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」と解釈できる。 白洲は相手の地位・身分などに臆することなく、自らの「プリンシプル」や矜恃に反するものには容赦ない態度で臨んだが、一方で合理的でユーモアを解する側面もあり、また下位の者には寛大で心遣いを欠かさなかった。 東北電力会長時代、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り、飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に、作業員の子供は白洲に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。白洲以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て白洲は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。 また軽井沢ゴルフ倶楽部時代、早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた鹿島建設の社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の白洲と知った社員はクビを覚悟したが、白洲は彼を親しく自分の隣に座らせた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん。」と諭した。キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や香典等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、白洲から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には佐藤栄作、井深大、水上勉、川口松太郎など錚々たる人物名が記してあった。 白洲はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようだ。中曽根康弘が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ、「なんだ?バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。 吉田茂の総理退陣(昭和29年)後、長男である吉田健一に、後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと、小りんとの再婚以後の吉田茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは白洲にとって痛恨事であったようで、後年に至るまで、この健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬(堤清二)は後に著作の中で、およそ白洲に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえも、ルールを守るということを第一にした。白洲が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した白洲が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と白洲が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。白洲は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。 クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。 田中に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを為替 に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。白洲は、田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた。」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。 田中を批判するばかりではなかった。ロッキード事件が起こると、各新聞は「容疑者の田中は…」と書きたてた。白洲は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は四年前彼を今様太閤として、「 日本が生んだ英雄」とおだてていました。今、容疑者田中と書くなら、なぜその前に『本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした』と、お詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。※Jonは次郎のことである。) 「お嬢さんを頂きます。」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父、樺山愛輔に言った台詞。) 「ネクタイもせずに失礼。」(新婚当初、正子との夕食の席で。) 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞。) 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて。) 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』白洲次郎 より引用) 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとでIPO するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』白洲次郎 より引用) 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(『諸君』9月号1969(昭和44)年) 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ。」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に。) 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ。」(犬丸一郎が帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった白洲の考え方が良く表れている。) 「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ。」三宅一生にアドバイスとして。 「わからん!」(白洲正子の『西行』を読んで。) 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて。) 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」 (武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん。) 「今の日本の若い人に一番足りないのは外貨預金 だ。『そういう事を言ったら損する』って事ばかり考えている。」 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽。」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女((第三子))の(現姓・牧山)桂子に向かって) 「右利きです。でも夜は左。」(入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。※ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ。) 宝塚歌劇団・宙組(そらぐみ)は、2008年に、「黎明の風」という題名で白洲次郎の波乱の生涯を扱った。 同年2月、宝塚大劇場で初演。同劇場は歌劇団本拠であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣街でもある。 2〜3月は同所で、4〜5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売される。次郎を演ずるのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。 白洲次郎は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち、義兄樺山丑二は東宝取締役、長男は東宝東和社長)、また前述のとおり、次郎が神戸一中時代に、歌劇団員と知り合いガールフレンドとしたことなど、宝塚歌劇に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。