癒しの沖縄旅行

シーサイドヒルズ ユクル恩納

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになる。 6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航した。 老中首座、阿部正弘嘉永5年6月5日(1852年)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出。その内容は以下の通り。 アメリカ合衆国が日本との通商を求めペリー提督の艦8隻が出航、次の年の3月に江戸へ来る 拒否は戦争となる 長崎でアメリカと貿易すべき 通商条約の内容 アメリカ合衆国の開国意向文書概要報告 阿部正弘は同年10月に海岸防禦御用掛(海防掛)に意見を聞き11月に海防掛はこれは疑わしく長崎奉行に聞くべきと答えた。長崎奉行はオランダ人は信用できないとした。[1]そのため幕府の対応は三浦半島の防備を強化する為に彦根藩の兵を増やした程度であった。アメリカ海軍の東インド艦隊はかつて来航したことがあったが、そのときはイギリス海軍やロシア海軍艦艇のように帰ったため、今回も同じだろうと考えていた。しかし、島津斉彬がアメリカ海軍東インド艦隊の琉球来訪以降の動静を老中阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。 1853年(嘉永6年)クルティウスの「別段風説書」にあった3月は何事もなく過ぎた。しかし、6月3日(7月8日)に浦賀沖に現れ日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。 サラトガ号浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。 浦賀は見物人でいっぱいになり、デザイン会社 に小船で近くまで繰り出すものもあったが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂と共に、次第に不安が広がるようになった。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれている(ただし、同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に明治11年(1878年)の『武江年表』や大正3年(1914年)『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性も指摘されている。また、上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2席のみである)。 合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日) 左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの来航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談する為に4日の看護師 求人 をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。 このとき第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、6月6日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。 それからわずか10日後の6月22日(同年7月27日)に将軍家慶は死去すると、13代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、これは開幕以来初めてであった。国政に家庭教師 の無かった外様大名はよろこんだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、幕府の権威を下げるものであった。 阿部はとりあえず、諸大名へ江戸湾警備を増強すべく、砲撃用の台場造営を命じたほか、11月14日に持ち場の変更を行わせた。 ポーハタン号嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。 1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(USS Powhatan 以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「テレマーケティング 」(以上、帆船)の巡洋艦六隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った(一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのはこの折である)。 まず、アメリカ側が船上でフランス料理を振舞った。日本人は鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいた事に驚いた、という(本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで百を超える料理が出された。しかし、肉料理が出ないのは未開だから、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りの事をやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。 約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。 ペリー艦隊は6月1日に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーは米国へ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に64歳で死去した。その後、米国は熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、これらの国は結局、英国やフランス、ロシアが勢力を拡大してしまった(日本と沖縄は第二次世界大戦を経て米国の勢力下におかれることになった)。ちなみに、1945年(昭和20年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。