官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残った。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 口数こそ少ないが他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛も、大久保の前では殆ど意見出来なかったという。 また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは、維新の根幹として、旧来の人事の刷新を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝允や大隈重信と対立した。大木喬任や薩摩出身の吉井友実・松方正義ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧幕臣を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実美宛覚書)。 渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている[2]。 こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて、大隈重信はもちろん、井上馨・後藤象二郎・江藤新平らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米視察で国家運営の実情を知って以後は、こうしたいわゆる「党派的行動」を改めるようになった。 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保没後の帝国議会で板垣退助が答弁したとき、野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は、「大久保卿であればこんなことにはならないのに」といって大久保の威厳を偲んだ。 内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省では、伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 家庭内では優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、次男の牧野伸顕と三男の大久保利武が争って玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。 青いガラス製のFX を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用する、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。 江藤新平が佐賀の乱で挙兵した際に、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。大久保は江藤のことをよほど憎んでいたらしく、大久保の日記には「・・・今日、裁判所に宮に随従、江東(藤)之裁判を聴聞す」や、「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」など、辛辣極まりない表現を使い、罵倒している。 かつての盟友西郷隆盛が挙兵したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と書き送った一面があった。しかし、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言った様だ[3])。 また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたとか、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記を書くことを人に勧めたりしていたともいう。 暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まってFX 取引 になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。 大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、西郷贔屓の鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていた。現在、鹿児島市には大久保の銅像があるが、これは西南戦争百周年に際して東京から「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったとされる。現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされているが、しばらく前までは鹿児島では大久保の話も出来ないほどであった。 安政4年(1857年)に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には、長男大久保利和(貴族院議員)・次男牧野伸顕(内大臣)・三男大久保利武(大阪府知事)・五男石原雄熊・長女芳子が生まれた。芳子は後の外務大臣伊集院彦吉に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう(杉浦勇)という愛妾が居り、おゆうとの間に四男大久保利夫(海軍少尉)・六男大久保駿熊・七男大久保七熊(農学者)・八男大久保利賢(横浜正金銀行頭取)を儲けた。 孫の大久保利謙は日本近代史家で東大名誉教授。もうFX の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)。 安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。慶応3年(1867年)、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王と名乗る。明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。 明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1876年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。 親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。1890年(明治23年)陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。 国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。 社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。