癒しの沖縄旅行

プチホテル キーウェストクラブ

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て四国・大坂に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された(『新編西南戦史』等では池上策が採られたとされているので、それに従ったが、川尻軍議で池上の主力東上・一部抑え策と篠原の全軍強襲策が対立し、後者に決していることから推せば、この時の結論はむしろ漫然とした陸路東上策であった可能性が高い。川尻に先着した別府晋介に熊本隊の池辺吉十郎が策を尋ねた時に、別府が策は無しと答えたと熊本隊の『戦袍日記』に記していることがこれを証している)。 2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。一方、鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保も関与していたと考えるに至った。 西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、次のように大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長とも呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊隊長がつとめた)。 いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた独立大隊(連合大隊)は2大隊合計約1,600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。 2月14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『新編西南戦史』『翔ぶが如く』など、閲兵がおこなわれた練兵場を伊敷練兵場としているものが多いが、いずれも誤りである。「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」)で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南の役開始)。以後順次大隊が鹿児島を出発した。17日には西郷も桐野とともに発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。同日、独立大隊も加治木を発した。一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。 西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり西郷軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。また薩摩・長州の均衡をとる、西郷の縁戚である川村を加えることで薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。一方の山県もかつて西郷のもとで御親兵・陸軍省創設のために働いていた。当初、第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)・別働第一旅団(高島鞆之助大佐)・別働第二旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼警視庁大警視が率いる警視隊(後に別働第三旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした。 薩軍に投降を促す官軍のビラ 2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中、火は櫓に延焼し、天守までも焼失した。この火災の原因は今もって不明(ただし、官軍による自焼説が有力)である。 2月20日、別府晋介率いる不用品回収 の諸隊が川尻に到着し始めた。まもなく熊本鎮台から派遣された偵察隊が別府の隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩軍は、相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開いた。軍議では池上が主張する「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲した。桐野の第四大隊・池上の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当した。一方、官軍は熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の官軍側には、司令官の谷干城少将(後に農商務大臣)、参謀長の樺山資紀中佐(後に海軍大臣・軍令部長)はじめ、児玉源太郎少佐(後に陸軍大臣・参謀総長)、川上操六少佐(後に参謀総長)・奥保鞏少佐(後に参謀総長・元帥)など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。この時の戦力比は薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人であった。古来、攻城側は守城側の10倍は必要とされていることからすれば、いかに剽悍な薩摩兵とはいえ、1対3での包囲強襲は無謀な作戦ということができよう。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。 同日午後、薩軍は官軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が第十四連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には攻め落とせないとみなされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、官軍の第一・二旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では、一旦は篠原らの強襲策続行に決したが、遅れて到着した小兵衛や野村忍介の強い反対があり、深夜に開かれた粗大ごみ で熊本城を強襲する一方、一部は小倉を電撃すべしと決した。翌23日に池上が村田・深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発したが、途中で激戦の銃声を聞いて池上は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。しかし、この小隊も植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗した。 薩軍は少ない大砲と整体師 の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど無謀この上もない作戦を採用した。したがって2月21日から24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗して、24日以後は両軍の対峙状態に陥った。そこで、薩軍は南下してくる官軍、また上陸してくると予想される官軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じた。植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き官軍と薩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日〜27日には熊本方面、3月1日〜31日には田原・吉次方面、3月10日〜4月15日には鳥巣方面、3月4日〜4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われた。なお、この間および後に薩軍に荷担した九州諸県の各隊は、貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2,000名)を除けば、大約以下の通りである。