癒しの沖縄旅行

ホテル浜比嘉島リゾート

9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20〜30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。 官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。 西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。 今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。 翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。 9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。 西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。 午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。 西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。 1871年の廃藩置県で全国の直轄化が完成した明治政府だったが、反面、各藩の借金および士族への俸禄の支払い義務を受け継ぐことになり、家禄支給は歳出の30%以上となってしまった。政府は、赤字財政健全化のため、生産活動をせずに俸禄を受けている特権階級の士族の廃止を目的に四民平等を謳い、1873年に徴兵制、1876年に外為 を行った。これで士族解体の方向が決定付けられてしまったため、士族の反乱が頻発し、西南戦争に至る。 政府の西南戦争の軍事費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀行)、インフレーションが発生した。のちの大蔵卿松方正義によって増税・官営企業の払い下げ・通貨整理がなされ、兌換紙幣の発行が出来るようになり、日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られた。しかし、松方デフレで農民の小作化が進み(小作農率の全国平均38%→47%)、大地主が発生した。また、小作を続けられないほど困窮した者は都市に流入し、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、都市部の貧困層が拡大した。また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、代わって私有資本による鉄道建設が進んだ(→日本の鉄道史)。 西南戦争に決着が付いた時点で、士族階級の特権は明白に否定され、その没落が決定付けられた。戦争にともなう経済の混乱は貧富の差の拡大をもたらし、多くの農民が没落し小作農となった。その一方で、一部の大地主や財閥は資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。「身分」よりも「財」が優越する社会が不動産 し、結果的に日本の近代化を進めることなった。 太平洋戦争による敗戦を経ても現代でも続く、長州藩閥の影響による内務省族主導の政治体制が始まった。 徴兵制による国民皆兵体制が定着した。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証された。政府軍は勝利の原因が、近代的装備、火力、通信手段、指揮能力の違いにあったことを正しく把握していた。西南戦争後の軍の近代化路線では、徴兵を基盤とした常備軍を置き、装備統帥の近代化を追求する路線に変更はなかった。 一方で、兵力と火力に勝っていながら、鎮台兵は戦術的戦闘ではしばしば西郷軍の士族兵に敗北した。兵士の戦意、士気の問題は政府軍にとって解決すべき課題であった。西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考え明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになった。 当時、此薩摩の暴動に付いては、西郷が加つて居るか居らぬかと云ふことは、一の疑問であつた。現に大山すらも「西郷は決して加つて居らぬ」と云ふものだから、一般の人も「大山がああ云ふのであるから、西郷は加つて居らぬ。」と云ふたものであつたが、私は、「いや、そうでない。西郷はくみする考はなくとも、是迄の情報に於いては、外のものが必ず漕ぎ出すに違ひない。」と云ふた。[2] 熊本県、FX に至るまで、此節は薩兵を慕ふが如き有様にて、万事不都合の義、毛頭無し。西郷先生之徳、万世に輝きたるものに候。[3] 籠城が久しくなるに従って、糧食は減つて来る。煙草も尽きて来る。谷子爵の当時の苦衷と云ふものは、共に籠城した余等でなければ、到底想像だも出来ないであろうと思はれる。其所で、子爵は、幹部は、戦闘線に出なくともいいのであろうからと云ふので、余等一同は、栗の粥を啜り、砲弾で死んだ軍馬の肉を、是幸いと取って煮染にして喰ふ。……[4] ・其の日(三月十八日)正面軍の密使、福田丈平、植木より至る。其君に曰く、賊軍、弾丸己に欠き、村民をして、我軍の射る所を、取拾せしめ、1箇二厘五毛の償を以つて之を買ふ。然れども、唯、其券を与ふるのみ。之を請求するも賠償せず。衆乃其詐欺を知り、今復之を拾はずと。[5] 古番峠は、八代を距ると、約五里、球摩八代両郡の交界にして、四顧皆山路、極めて険階、所謂一夫之を扼すれば、万卒も過る能はざるもの。面して隻賊の守るなし。我兵一丸を費さずして之を踰え、山口村に至る。村中僅に十戸許、皆山根に行き、渓水を汲て飲料とす。地に米穀を産せず、芋裨の類を以て食とす。実に山間の孤村なり。[6] 是より先、戦死者を収拾するに方り、一兵卒其の隻眼を銃射せられ、八日間晶外に外れ、絶えて飲食せず、能く生命を保てりと。今、之を病院に致す、口言ふこと能はず、唯目を開きたるのみ。 官急に鶏卵を火酒に加へて之を飲ましめ、蘇せりと。[7] 是日(7月1日)伍長代理猪俣勝三、坪屋村の炊事所に在り。高畑山巳に敗るると雖ども、未だ炊事所を移すの命を受けず、乃ち炊具を収めて命を待つ。而して隊長は、谿を下り、岡許に退さしを以て、其命を伝ふるに暇あらず、賊は巳に坪屋に乱入す。猪俣遂に害に遭ふ。人其能く職を守ってするを嘆惜す。[8] 賊の降伏日に夥しく、手負人等の咄にも、賊軍の困苦を語らざるはなし。伊集院某は、45日前、都城より帰り来り某困しみしを語るに、4日間、イチゴと草木の葉とを喰ひ、或は土をも喰たる由。其他、竹内金次郎も先日走り帰りて、語るにも、小銃の弾丸は樫木を用る等、実に困難を極めたりと云。[9] ・薩将辺見十郎太が、先鋒隊を掲げて、可愛岳の官軍を突いたときは、時恰も18日の昧爽、官軍守兵の交替期で、其時、守兵の混乱雑踏と云ふものは、殆ど形容することが出来ぬ。而して辺見が、獅子奮迅の勢で、絶壁を飛下り、萱原の中を飛び越え、大喝一声、電光石火の如く、官軍の牙営(第一旅団、第二旅団)に斫り込んだ勢に辟易して、官軍は皆四散し、牙営に在つた三好少将や野津少将は、周章狼狽、措く所を失つて逃げた。其醜態と云ふものは、実に見るに忍びざる有様で。我等が辺見に従つて、牙営に入つたときには、種種の遺棄品も多くあつたが、一寸、吾人の目を惹いたものは、三味線と婦人の駒下駄であつた。是は正しく官軍の牙営にあつたものである。[10]